小川秀夫の温泉湯治物語

――あの頃、土地が金になり、空気が熱を帯びていた

さて、昔話しから行くか。

昭和の終り、そして平成、バブルと呼ばれた、あの熱病のような時代。今振り返れば、まるで夢だったような気もするが、確かに私はその真っただ中にいたんだ。神奈川県で不動産業を始め、波に乗り、そして波に呑まれた。

きっかけは、ある地主の農地の売買だった。畑を宅地に転用し、住宅として分譲すれば、あっという間に契約がまとまった。その仕事ぶりが評判となり、次から次へと近隣の地主たちが私の元を訪れるようになった。

当時は、何をしなくても土地の値段が上がった。朝に評価した土地が、夕方にはもう別の顔をしている、そんな感覚だ。気づけば異業種の者たち――大工、電器屋、果ては飲食業までが不動産で一発当てようと、街中が土地と金の話でざわついていた。

まさしく、狂騒だった。

だからこそ、地主たちは“まともな人間”を求めていたのだろう。金の匂いに群がる者たちの中で、私は誠実に、確実に仕事をこなした。

それが信用となり、地域の不動産組合では副会長に推された。肩書きがつけば取引も加速し、土地は右から左へと流れていった。あの頃は本当に、風の匂いさえ金の匂いがしたものだよ。

だが、そう長くは続かなかった。

不動産総量規制――国の政策が、すべてを変えた。

銀行が貸さなくなり、買い手が消え、値上がり続けていた土地は一夜にして重荷と化した。多くの会社が倒れ、業界は阿鼻叫喚の様相を呈した。そして、我が日栄ホームも例外ではなかった。

幸いだったのは、撤退のタイミングを誤らなかったことだ。社員に後ろ足を踏ませることなく、きれいに畳むことができた。残ったのは、自社ビルと箱根の温泉付きの土地。

しかし、この箱根の土地が曲者だった。

一見すると夢のような物件だったが、実態は崖地。インフラ整備だけで数億。ホテルにするにしても、宅地にするにしても、簡単には手が出せない。曰く付きで安く手に入れたが、当時の私は「いずれ地価が戻れば売れる」と、楽観していた。

だが、バブルの崩壊は容赦なかった。地価は沈み続け、人の夢も共に沈んっだ。箱根の土地は結局、誰の手にも渡らず、不良在庫として静かに時を止めている。

――私は失敗したのだろうか?

いや、そうは思わない。あの時代を生き、無数の取引を重ね、人と向き合い、信頼を得た。それが、私の誇りだ。バブルという時代は確かに狂っていたが、その渦中で私は真っ当に働いた。そして、何より生き残ったんだ。