小川秀夫の温泉湯治物語

バブルは弾けたが、俺の魂はまだ沸いていた

バブル崩壊――それはまるで、熱に浮かされた夢から氷水を浴びせられるような終わりだった。気がつけば、手元に残ったのは…本社ビルと、売れぬ崖地の温泉付きの土地、少しの借金。

そして静かに離れていった社員たち。

家族だけが残った。

だが、それも絆というより、嵐の後の瓦礫のような関係だった。過去の栄光と資産の残骸を前に、何もできないでいた。

そしてある日、妻の不満は爆発した。

「あの時だって、私は反対だったのよ!“つきあい”だか“顔が立つ”だか知らないけど、あなたが格好つけて買った箱根の温泉、結局こんなことになって…!」

傷心しきった心に響いた。久しぶりの夫婦喧嘩が勃発した。

応戦した私は、思うままを口に出してしまった。

「その温泉水を毎日ポリタンクで運んできて家で温泉湯治をしたからおまえの膠原病も綺麗さっぱり治ったんじゃないか」

……言ってから、雷が落ちたような衝撃が走る。

これだ。温泉の宅配。

病気で温泉地に行けない人は全国にいる。でも、家の風呂が温泉になったら?――そこが勝負どころだ。「一般家庭の浴槽は200リットル前後、20リットルの温泉水を10箱。月に300箱。1箱2000円で……ひと月に60万円で源泉100%の温泉が使える。半分をお湯で薄めれば月30万円。しかも毎月リピート注文がある。風呂を追い焚きし温泉水を追加しながら使えば一月の費用はもっと手頃になる。これだけで、ビジネスになる!」

私は即座に動いた。機械を導入し、箱根の温泉を20リットルごとに詰める体制を整えた。

社員――そう、妻と娘と息子――に言った。

「今日から日栄ホームは温泉を売る!身体がつらくて温泉に行けない人に、私たちが温泉を届けるんだ!」

妻の顔に、久しぶりの笑みが浮かんだ。ほんの少し、明日が見えたのかもしれないな。

娘はポツリと「ふーん、そうなんだ」とつぶやいたが、息子は真っ向から異議を唱えた。

「二箱三箱ならともかく1人で月300箱…そんなに温泉水を買う人いるんですか?ていうか、温泉で病気が治るなら病院いらないだろ」

反論としては正論。だが、ここで思わぬ一手が出る。娘が口を開いた。

「最近、健康食品のチラシって多いよね。クロレラとかキトサンとか、“これで治りました”って体験談が山ほど載ってるやつ。あれって、最初はタダで試してもらって、効果があった人の声を使って広げてるんじゃない?…温泉もそれでやってみたら?」

なるほど、今で言う“無料体験ビジネス”というやつだ。無料で配って、効いた人に語ってもらう。口コミが広がれば、健康に悩む人たちが集まってくる。温泉は沸いている。ただで湧き出る“命の水”。ならばそれを、必要としている人に届けるだけだ。

こうして、温泉宅配事業は静かに、だが確かに幕を開けた。

バブルに翻弄された人生。だが、人生の本番はここからだった――