小川秀夫の温泉湯治物語

追放された男、温泉に還る 〜魂を癒す湯治旅〜

北海道・千歳空港に降り立ったその瞬間、私の10余年にわたる激戦の日々が、音を立てて背中から崩れ落ちた気がした。すべてを賭け、信じ、闘ってきた。

世間の嘲笑、医療の権威、そして――身内からの言葉。

「あなたがいる場所は、ここにはありません。」

その一言が、胸に深く突き刺さっていた。
勝ったはずなのに。治したはずなのに。
子供達の笑顔を取り戻したはずなのに――

私は追い出されたのだ。己が築いた場所から。
もはや何をしたいのかもわからなかった。
ただ、傷ついたこの魂を、ひたすらに癒したかった。

そうだ。温泉だ。

あれほど語り、勧め、人に希望を託した温泉湯治。自分が一番、その力にすがるべき時ではないか。

北海道――そこは、西に登別、東に弟子屈
古来、酪農や農業に従事する人々が、閑散期に体と心を癒しに訪れる湯治の聖地。

私は半年間、旅を続けた。
湯に浸かり、煙に包まれ、黙って空を眺めた。ようやく人と話す気力が戻ってきた頃。

同じように一人で湯治をしている者に、ふと声をかけるようになった。

趣味で湯めぐりをしている人、
持病の改善に賭けている人、
そして――アトピーに悩み、もしかしたら私の本を読んだ人もいたかもしれない。

ある温泉地で、私と同じくらいの年格好の男に、先に声をかけられた。

「おい、あんたも病かなんかで湯治してんのか?」

私は笑って返した。

「いや、精神的ショックってやつさ。息子に、家を追い出されたんだよ。」

「なにやらかしたんだよ、ハッハッハ!……っと、いけね。そんなこと根掘り葉掘り聞くもんじゃねえな。」

「いや、構わんさ。」

「俺はな、ガンだよ。医者には余命4ヶ月だって言われたが……もう8ヶ月生きてんだ。おまけにピンピンしてる。とんだ藪医者に当たっちまったよ、ガハハ!」

この男、よく笑う。
土建屋の社長だったらしく、今は会社を若い衆に任せ、温泉三昧の日々だという。
私はつられて笑いながら、自然治癒力について簡単に語った。

医学が諦めたときこそ、人間に本来備わった力が目を覚ますこと。そして、湯治の本質とは、ただ温まることではなく、己の命を信じることだと。

男はニッと笑ってこう言った。

「お前、いい話するな。あそこにいるあいつもガン。そっちのじいさんも。ここの湯治場、ガン患者だらけだぜ。みんなに聞かせてやりたいよ。」
「そうだ、あんた施設作れよ。温泉湯治の宿!そんで、ガンの連中に毎晩講釈垂れてりゃいいんだ!ガハハ!」

私も釣られて腹を抱えて笑った。

なぜだろう。あんなに苦しかった心が、この笑いで少し溶けていくのを感じた。

やがて私は、気ままな湯治旅の果てに弟子屈へと辿り着いた。
そこにはまだ何もなかった。
ただ、大地と、湯けむりと、風の音――

だが、心の奥に、久々に灯がともった。
もう一度やってやろうじゃないか。
“本当に治す場所”を、この手で作るんだ。